昭和四十五年七月二日 夜の御理解
夏目漱石の言葉の中に「情に走れば流され、地に走ればかたくなる」。今日は久留米の佐田さんがあちらの借家におられる方で、普通は二万円ぐらいの価値のある家らしい、それをまあ一万円ぐらいで貸してあったからせめて一万五千円くらいに上げさせて頂きたいとお届けがあっておりました。その事をここに連絡されたところが、先方のご主人が気の弱い人らしいんですよね。だから酒を飲んできてから高すぎるとか信心しよってからそげな我情我欲云うてから、とか文句云うてきとんなさるですもん。今日はそんなお届けがありましたがね、まあけれども、しゃっちそがしこ取り上げてしまわなならんというのではなくて、向こうが千円か千五百円か上げると云いよんなさるげなから、まあもういっぺん云うことだけ云うて【 】に又話しをしなさいというて【 】頂いたんですけれどもね。今も、原さんがそれによく似た事をですね、何か修繕ものを頼みにこられたと。それをわずかばかりのところを負けとけとか負けとかんとか値切られたと。「もう修繕なんかはね、駆け引きあってほんな手間賃ですからおまけできません」ち、「せめて五十円なっと負けときましょう」とまあ五十円くらいなら負けてもらわんでんよかというところじゃなかったでしょうかね、「そんなら負けてもらわんでんよか、私はきたなか事好かんけんで」とごたる風に云うてもう頼まんというて帰られたが。信心しよってそういうな事がやっぱあるんですよね。だから、どうそういう時に、私共通らして頂いたら信心かという訳なんですけどね。いわば、情にさおさじゃ流され、結局地でいけばかたくなるというような、その中をなんとか信心でいけれる道があるような気がするんですね。その事を、
【 】の御祈念に私、思わして頂いとったらね、あの「角に出やんす窓の月」都々逸の何かの一節なんですね。お月様はまん丸いんだけど、こちらが四角ガラス窓ならガラス窓から見ると四角にお月様が出られるという訳なんですよね。ですから本来はやはり神の子としての、汚い子というておるとかずるい子といっておるとか悪い人だというけれども、そのしょうはやはり善なりでありますからね、だからそういうところをたて、そういういきさつとか問題があっても、こちらが我情我欲を決して、しゃっちそがしこ取り上げんならんといったようなものではなくて、なんかその帰っていかれるあと姿からね、今日の昼の御祈念じゃないですけれども後から拝むと云ったようなものね、そういうものが必要じゃないだろうかと思う。いわゆるどうして汚かやつじゃろうかと思わんで、酒どん飲んできてからてんなんてんじゃなくて、まあ心が弱いからこそ酒を飲んできとる。やはり人間の欲をもたないものはない。値切っておる。それをね、まあかわいそうな人であるてんなんてん思わずに可愛いものじゃという、こちらが頂き方をしてですね、そのいきさつはそうであってもその後から拝む生き方、可愛いものじゃと親が子を思う切実な一心をもって願わしてもらう、といったようなのがね、その後に必要ではなかろうかと私は思うですね。そこから又神様が「もう、あんたんとこに頼まん」というふうに云って帰った人でもですよね、又佐田さんとこの場合では酒がさめ、すめの時によく考えたら「ああこらー自分が」と云ったようなものに分かるよえな事にもなってくるのではないでとしょうかね。
「角に出やんす窓の月」でありますね。だからせっかくまん丸いものが角に出て、角という事はこちらが几帳面な当たり前の事をいうてるという事。そこにその丸い月が四角に出てきておるという事なんですがね、そこを又本来は人のせいぜんなりというところですかね、神の氏子としてのという、そういうものが信心のあるものは、そういう見方が違ってくればいいのじゃないだろうかと、私は思わしてもらったですね。どうぞ。